「アドラー トラウマ」と検索してみてください。候補に「トラウマは存在しない」「トラウマの否定」「トラウマなど存在しない」が並びます。アドラー心理学と言えば「トラウマを否定した人」というイメージが、それだけ広まっているということです。
では、アドラー本人は本当に「トラウマは存在しない」と書いたのでしょうか。気になったので、アドラーの代表作『人生の意味の心理学』の英語の原文を調べました。使ったのは1933年のロンドン版で、最初から最後まで目を通しています。あわせて、トラウマとPTSDについての世界調査の数字も並べます。
今日から年末まで、numabaseではアドラー心理学を「本人の原文」と「その後のデータ」で確かめる連載を続けます。この記事はその1本目です。
先に結論
- 『人生の意味の心理学』の原文に、「トラウマは存在しない」という文はありません。「trauma」という単語が出てくるのは2か所だけです。
- 原文に書かれているのは、「私たちは経験のショック、いわゆるトラウマに苦しむのではない。経験の中から、自分の目的に合うものを作り出すのだ」という主張です。
- アドラーはすぐ後で、子ども時代の3つの状況(体の弱さ・甘やかし・放任)から、生き方の誤りが生まれやすいとも書いています。過去の影響を無視した人ではありません。
- 世界24か国・約7万人の調査では、人生でトラウマになりうる出来事を経験した人は70.4%。一方、PTSDになった人は全体の3.9%、経験した人の中でも5.6%でした。
- 同じ出来事でも人によって結果が違う、という点はデータと重なります。ただ、PTSDは診断基準のある病気です。「気の持ちよう」で片づけてよい話ではありません。
「トラウマは存在しない」は、どこから広まったのか
日本でアドラー心理学が広く知られたきっかけは、2013年の『嫌われる勇気』です。著者は岸見一郎さんと古賀史健さんで、ダイヤモンド社から出ています。ダイヤモンド社は2019年10月、11月の増刷で累計発行部数が200万部を突破すると発表しました。
出版社の紹介文には、この本が「トラウマ」の存在を否定している、と書かれています。そのうえで、人の悩みはすべて対人関係の悩みだと言い切る本です。本は哲学者と青年の対話の形で進みます。アドラーの考えを、著者が現代の読者向けにかみ砕いて語る構成です。
「トラウマは存在しない」という強い言い方は、この本の対話を通じて広まったと考えられます。なお同書も、この後で紹介するアドラーの一節を引用しています。アドラー本人が同じ言い方をしているかは、別に確かめる必要があります。そこで、原文を見ていきます。
原文(1933年ロンドン版)には、こう書いてある
『人生の意味の心理学』の原題は『What Life Should Mean to You』です。1931年にアメリカで出版され、1933年にはイギリス版も出ています。今回はインターネットアーカイブで公開されている、1933年版の全文を使いました。
全文を「trauma」で検索すると、出てくるのは14ページと48ページの2か所だけでした。巻末の索引も「Trauma, 14, 48」となっています。中心になるのは14ページのこの部分です。
No experience is a cause of success or failure. We do not suffer from the shock of our experiences—the so-called trauma—but we make out of them just what suits our purposes.
(Alfred Adler, What Life Should Mean to You, 1933年ロンドン版 p.14)
私の訳では、次のようになります。
「どんな経験も、それ自体が成功や失敗の原因になるわけではない。私たちは経験のショック、いわゆるトラウマに苦しむのではない。経験の中から、自分の目的に合うものを作り出すのだ。」
アドラーが否定しているのは、「ある経験をしたら、必ずこうなる」という決めつけです。トラウマという現象そのものではありません。同じページには、「意味は状況によって決まるのではない。私たちが状況に与える意味によって、自分自身を決めている」という文も続きます。
この前の段落では、つらい子ども時代を送った3人の男性が例に出てきます。1人目は「子どもには同じ思いをさせない」と考えます。2人目は「世の中は不公平だ」と受け取ります。3人目は「不幸な子ども時代だったのだから、何をしても許されるべきだ」と考えます。同じような経験でも、意味づけが違えば行動も違う、という話です。
48ページでは、刺激と反応や遺伝的な能力を調べる研究と並べて、トラウマの影響を追う研究を「主として生理学や生物学の仕事だ」と位置づけています。ここでも「存在しない」とは書いていません。
アドラーは「子ども時代の影響」を否定していない
原文で見落とされやすいのが、14ページのすぐ後です。アドラーは、子ども時代に「重大な誤りの意味づけが、とてもよく生まれる状況」があると書き、3つを挙げています。
- 体に弱さや病気を抱えた子ども:自分の体のことで手いっぱいになり、人の役に立つという感覚を持ちにくい。
- 甘やかされた子ども:自分の望みが通るのが当たり前になり、注目されない場面で戸惑う。
- 放っておかれた子ども:愛情や協力を知らないまま育ち、世の中は冷たいものだと思い込みやすい。
アドラーは、失敗する人の多くがこの3つの状況から出てくる、とまで書いています。過去の環境が人に強く影響することを、はっきり認めているわけです。
ただし、そこで終わらないのがアドラーです。体の弱さについては「どんな器官の弱さも、誤った生き方を強制はしない」と続けます。影響は強いが、決定はしない。この線引きが、アドラーの本来の主張です。
1931年には「PTSD」という病名はまだなかった
もう1つ大事なのは、時代の違いです。アドラーがこの本を書いた1931年には、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という病名はありませんでした。PTSDが診断名として正式に入ったのは、1980年のアメリカ精神医学会の診断基準(DSM-III)からです。
アドラーが書いた「so-called trauma(いわゆるトラウマ)」は、決定論への批判の中で出てくる言葉です。当時の精神分析などで語られていた考え方を念頭に置いたものと考えられます。つまり「幼いころの衝撃的な体験が、のちの症状の原因になる」という考え方です。今の医学でいうPTSDと、同じものを指しているとは言えません。
90年以上前の一文を、そのまま今の病気に当てはめて「トラウマは存在しない」と言い換えると、意味が変わってしまいます。
世界7万人の調査:トラウマ経験は7割、PTSDは一部
では、今のデータでは、つらい出来事とその後の関係はどうなっているのでしょうか。WHOの世界精神保健調査の数字を並べます。
| 項目 | 数字 | 調査 |
|---|---|---|
| トラウマになりうる出来事を人生で1回以上経験した人 | 70.4% | 24か国・68,894人(2017年発表) |
| PTSDになったことがある人(全体) | 3.9% | 26調査・71,083人(2017年発表) |
| PTSDになったことがある人(出来事を経験した人の中) | 5.6% | 同上 |
| 日本でPTSDになったことがある人 | 1.3% | 世界精神保健日本調査 |
ここで言う「トラウマになりうる出来事」は、事故、災害、暴力、身近な人の突然の死などです。10人に7人が、人生のどこかで経験しています。
一方で、出来事を経験した人のうち、PTSDになったのは約18人に1人(5.6%)でした。日本の調査では、PTSDを抱えた期間の多くを占めた出来事が分析されています。多かったのは、身体的・性的な暴力、子どもの重い病気、身近な人の予期しない死でした。
データとアドラーが重なる所、重ならない所
この数字を、アドラーの原文と比べてみます。
重なる所は、「同じような出来事でも、その後は人によって大きく違う」という点です。つらい出来事を経験しても、多くの人はPTSDにはなりません。「経験が結果を決めるわけではない」というアドラーの主張は、この点ではデータと矛盾しません。
重ならない所は、PTSDになった人の扱いです。PTSDは、診断基準があり、治療法も研究されている病気です。「意味づけを変えれば済む」「本人がそれを目的にしている」と決めつけるのは、データからも、アドラーの原文からも言えません。
アドラーの考え方は、自分の生き方を見直すための道具としては役に立ちます。ただ、つらい症状が長く続いているときに、自分を責める材料に使うものではありません。眠れない、出来事が何度もよみがえる、といった状態が続くなら、精神科や心療内科に相談する方が先です。
日常での使い方:責めるためでなく、選び直すために
原文に沿って読むと、アドラーの主張は「過去は関係ない」ではありません。「過去の影響は受ける。でも、その意味づけは選び直せる」です。
たとえば、仕事やお金の場面で考えてみます。
- 「親がお金に厳しかったから、自分は使えない」と考えたとします。その代わりに、「その経験を、無駄づかいしない力として使えないか」と考えてみる。
- 「前の職場で失敗したから、もう挑戦しない」と決める前に、その決め方が、何を避ける目的になっているかを見てみる。
どちらも、過去の出来事を消すわけではありません。出来事はそのままで、そこに付けた意味だけを見直します。原文の「私たちは状況に与える意味によって、自分自身を決めている」は、こういう使い方をする言葉です。
まとめ:「トラウマは存在しない」は、言い過ぎた要約
- アドラーの主著の原文に、「トラウマは存在しない」という文はない。
- 原文は「経験のショックそのものではなく、経験に与える意味が人を決める」という主張。
- アドラーは、子ども時代の3つの状況が強く影響することを自分で書いている。
- 世界調査では、トラウマになりうる出来事の経験は7割、PTSDは経験者の5.6%。同じ出来事でも結果は人それぞれ。ただし、PTSDは病気として扱うべきもの。
「トラウマは存在しない」は、アドラーの考えを強く短く言い切った要約です。要約としては覚えやすいのですが、原文より言い過ぎています。原文の方が慎重で、そのぶん使いやすい考え方です。
次回は、同じくサジェストに「冷たい」と並ぶ「課題の分離」を、原文で確かめる予定です。
出典
- Alfred Adler, What Life Should Mean to You, edited by Alan Porter, George Allen & Unwin, London, 1933(初版は1931年、米国)。インターネットアーカイブ公開の全文 https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.221693 (p.14〜16, p.48)
- ダイヤモンド社『嫌われる勇気』書籍ページ https://www.diamond.co.jp/book/9784478025819.html / 200万部突破の発表(2019年10月) https://www.diamond.co.jp/information/book/q5hod5000000adz4.html
- Kessler RC, et al. "Trauma and PTSD in the WHO World Mental Health Surveys." European Journal of Psychotraumatology, 2017(24か国、68,894人、生涯のトラウマ経験70.4%)
- Koenen KC, et al. "Posttraumatic stress disorder in the World Mental Health Surveys." Psychological Medicine, 2017(26調査、71,083人、生涯有病率3.9%、経験者中5.6%)
- Kawakami N, et al. "Trauma and posttraumatic stress disorder in Japan: results from the World Mental Health Japan Survey." Journal of Psychiatric Research, 2014;53:157-165(生涯有病率1.3%)
- American Psychiatric Association, DSM-III, 1980
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