「年収800万円で幸せは頭打ち」は言い過ぎだった。年収17倍でも幸福度の差は100点中5点

「年収800万円を超えたら、それ以上稼いでも幸せにはならない」

この話、一度は聞いたことがあると思います。ノーベル経済学賞を取った心理学者ダニエル・カーネマンの研究が元ネタで、日本では「年収800万円説」として、ビジネス書やSNSで何度も引用されてきました。

この説を真に受けると、「どうせ上限があるなら、副業で稼ぐ意味ってあるの?」という話になります。

ところがこの説、2023年にカーネマン自身が加わった論文で、当てはまる範囲を広く言い過ぎていたと認められています。しかも、論文を原文で読んでいくと、「頭打ちかどうか」よりずっと身も蓋もない数字が出てきました。

今回はその論文を分解してみます。稼ぐ努力に意味はあるのか。お金の話をする以上、ここを雰囲気で信じたままなのは、普通に損だと思います。

結論:頭打ちは「幸福度が下位2割の層」だけ。ただし全体の差もたった5点

先に答えを書きます。

年収10万ドルを境に比べると、幸福度の伸びが止まっていたのは、幸福度が下位2割ほどの層だけでした。真ん中の層は年収が高いほど幸福度も高いまま。最も幸福な層では、10万ドルを超えたあたりから伸び方がむしろ速くなっていました。

つまり「全員が頭打ち」ではなかった。一部の層に見られた傾向を、全員の話として広めてしまっていた、というのが真相です。

ただし、ここで喜ぶのはまだ早いです。論文には、もう一つ大事な数字が書いてあります。世帯年収1万5,000ドルの人と25万ドルの人で、幸福度の中央値の差は100点満点でおよそ5点。年収が約17倍違っても、5点です。論文自身が「関係は統計的には確かだが、弱い」と書いています。

頭打ちかどうか以前に、そもそもお金と幸福の結びつきは、世間が思っているよりずっと細い。これがこの記事の本当の結論です。

ただし公平のために書いておくと、論文は「他の生活上の要因の影響も、同じくらい小さい」と添えています。2010年の研究では、年収が約4倍違うことの影響は、結婚している・いないの差の2倍ほど、週末かどうかの差と同じくらいでした。お金が無意味なのではなく、日々の気分を動かす要因はどれも、思ったより小さいということです。

論文はこれです。

  • Killingsworth, Kahneman, Mellers「Income and emotional well-being: A conflict resolved」
    米国科学アカデミー紀要(PNAS)、2023年3月

そもそも何が対立していたのか

話は2つの研究のケンカから始まります。

1つ目は2010年、カーネマンとディートンの研究です。ギャラップ社が毎日1,000人に行っていた調査の、45万件以上の回答を分析しました。質問は「昨日、楽しい気分だった時間は多かったか?」のような、はい・いいえで答える形式です。

結果は、年収が上がると幸福度も上がるけれど、あるところで平らになる。これが有名な「年収7.5万ドルで頭打ち」で、日本では「年収800万円説」として広まりました。

ちなみにこの7.5万ドルという数字、論文によると「6万〜9万ドル」という年収区分のちょうど真ん中を取っただけだそうです。正確には「9万ドル以下のどこかで頭打ち」としか言えなかった。10年以上引用され続けた数字の正体が区分の中間値だったというのは、なかなか味わい深いです。

2つ目は2021年、キリングズワースの研究です。こちらは働いている米国の成人3万3,391人に、スマホで1日3回ほど「今どんな気分?」と聞き続けました。集まった記録は172万5,994件。答え方も、はい・いいえではなく、とても悪い〜とても良いの連続したスケールです。

結果は、年収が高いほど幸福度も高い傾向がずっと続く。頭打ちは見つからなかった。

同じ「お金と幸福」を調べて、答えが真逆。普通なら、それぞれが自分の正しさを主張して終わるところです。

ライバル同士が組んで、データを一緒に洗い直した

ここからがこの論文の面白いところで、カーネマンとキリングズワースは、対立したまま論文を撃ち合うのではなく、一緒にデータを再分析することにしました。仲裁役として第三者の研究者メラーズを入れて。こういうやり方を「敵対的協働(adversarial collaboration)」と呼ぶそうです。なお、2010年の共著者ディートンはこの再分析には参加していません。

やったことはシンプルで、キリングズワースの172万件のデータを、平均値ではなく幸福度の分布の位置ごとに分けて見直しました。各年収区分の中で、幸福度が下から15%にあたる人、30%の人、真ん中の人、70%の人、85%の人。それぞれについて、年収10万ドル未満と以上で、幸福度と年収の関係の傾きがどう変わるかを比べています(10万ドルという区切りは、2010年の研究の9万ドルを物価調整して、あらかじめ決めたものです)。

すると、3つの違うパターンが出てきました。

  • 幸福度が低い層(下から15〜20%):年収10万ドルまでは年収が高いほど幸福度も高いが、それを超えるとほとんど差がない
  • 真ん中の層:年収が高いほど、同じペースで幸福度も高い
  • 幸福度が高い層:10万ドルを超えると、傾きがむしろ急になる(統計的にはっきりしたのは上から15%の位置で、上から30%の位置は「その傾向がある」程度)

平均だけ見ると、これらが一部打ち消し合って「ずっと右肩上がり」に見えていた。一方で2010年の研究は、はい・いいえの質問だったせいで、「かなり幸せ」と「めちゃくちゃ幸せ」を区別できていなかった。論文はこれを天井効果と呼んでいて、測れていたのは実質的に「不幸かどうか」に近いものだった、と指摘しています。

2010年の研究は、「幸福」ではなく「不幸」の研究として発表していれば正しい結論になっていたかもしれない。論文はそう述べています。自分の有名な論文に対してこれを書けるのは、正直かっこいいです。

頭打ちになった2割は、何に苦しんでいるのか

じゃあ、年収10万ドルを超えても幸福度に差が出ない下位2割の層は、何が違うのか。

論文はここを断定していません。仮説として、失恋、死別、臨床的なうつのような「高い収入でも和らがない苦しみ」が残っているのかもしれない、と書いているだけです。悩みの種類で人を分けて分析したわけではない点は、押さえておく必要があります。

それでも、この仮説はかなり実用的だと私は思っています。

家賃、借金、将来のお金の不安。こういう悩みは、額が足りれば素直に軽くなる種類のものです。一方で、人間関係の喪失や心の不調は、お金を積んでも消えにくい。後者を抱えたまま副業を増やして年収を上げても、一番報われにくい努力に時間を突っ込むことになる。時間もお金も有限なので、これが一番の損です。

自分の悩みは「お金で消えるやつ」か、見分ける3つの質問

ここからは論文の外の話で、私の見方です。論文が示したのは「高い収入でも和らがない苦しみがあるかもしれない」というところまでなので、それを自分に当てはめるための質問を3つ用意しました。

質問1:その悩み、あと月5万円あったら消えますか?
家賃が苦しい、欲しいものが買えない、貯金が減っていくのが怖い。こういう悩みは、額が足りれば素直に消えます。「消える」と即答できるなら、あなたの悩みはお金で解決できる側です。

質問2:お金があった時期にも、同じ悩みを抱えていましたか?
ボーナスが出た月、臨時収入があった月。そのときも同じようにしんどかったなら、原因はお金ではない可能性が高いです。収入の増減に関係なく続いている悩みは、年収を上げても残ります。

質問3:その悩みを、誰かに話せていますか?
論文が例に挙げた失恋・死別・うつは、どれも人との関係や心の状態の問題です。この種類の悩みは、お金より先に、話せる相手や専門家につながることのほうが効きます。ここに時間を使うのは、遠回りに見えて、一番損の少ない選択です。

3つの質問で「お金で消える」側だと分かったなら、稼ぐ方向に振り切っていい。ただし、年収が約17倍でも幸福度の差は5点だった、という数字は頭の片隅に置いておいてください。お金で消える悩みを消したら、そこから先は、稼ぐことより使い方や時間の使い道のほうが効いてくる可能性が高いと私は見ています。

日本にそのまま当てはめていいのか

ここも正直に書いておきます。この論文をそのまま日本の話にするのは、少し無理があります。

  • 対象は米国で働いている成人。無職の人や日本の人は含まれていません
  • 年収は世帯年収です。参加者の世帯年収の中央値は8.5万ドルでした
  • 10万ドルを日本円にすると、1ドル150円換算で約1,500万円。ただ、物価も社会保障も違うので、「日本なら年収1,500万円で頭打ち」と読むのは乱暴です
  • 年収50万ドル超の人は全体の1.2%しかおらず、超高所得層の結果は数が少ない
  • ある時点で年収の違う人たちを比べた相関で、「稼ぎを増やしたら幸福度が上がる」という因果を示したものではありません。翌年、同じ学術誌に、この点を批判する反論も掲載されています

なので、この記事で持ち帰ってほしいのは具体的な金額ではなく、構造のほうです。お金と幸福の関係は思ったより弱く、しかも人によって形が違う。この構造は、国が変わってもそれほど変わらないと私は見ています。

「年収800万円説」が教えてくれたこと

最後に、個人的にいちばん面白かった点をもう一つ。

この論文は、結論そのものよりも、「平均値だけ見ると真実が消える」という話として読むと応用が効きます。

平均を見れば、年収と幸福はきれいな右肩上がり。でも中身を分けると、伸び続ける層、頭打ちの層、加速する層が混ざっていた。ポイ活アプリの「平均月収○円」も、副業の「平均年収○万円」も、たぶん同じ構造をしています。平均の裏で、ほとんど稼げていない大多数と、ごく一部の稼げている人が混ざっている。

数字を見たら、「それは誰の平均なのか」と「その差は何点なのか」を疑う。10年以上も世界中で引用され続けた数字から学べる教訓としては、これが一番安上がりです。

年収800万円で幸せは頭打ち、ではなかった。頭打ちだったのは一部の層だけで、そもそも年収約17倍の差は、幸福度5点の差でしかなかった。稼ぐ前に、まず自分の悩みの種類を見分けるところから。

ではまた。

参考文献

  • Killingsworth M. A., Kahneman D., Mellers B. (2023). Income and emotional well-being: A conflict resolved. PNAS, 120(10), e2208661120.
  • Kahneman D., Deaton A. (2010). High income improves evaluation of life but not emotional well-being. PNAS, 107, 16489–16493.
  • Killingsworth M. A. (2021). Experienced well-being rises with income, even above $75,000 per year. PNAS, 118, e2016976118.

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