何者にもならない勇気─コジコジ哲学が現代人を救う理由【きなこらむ】 

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意味があるのかないのか知識沼KINAKOが最近のことをコーヒーでも飲みながら。

本日の沼は「コジコジ哲学」

きなこ
無駄を省いて無駄なことするKINAKOです。

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今日のトレンドから

池袋駅の南改札前に、ふわりとした空気が漂い始めている。

それは、韓国発の人気キャラクター「チェゴシム」と、日本の脱力系哲学キャラ「コジコジ」が手を取り合う──そんな夢のようなポップアップイベントの告知がSNSを駆け巡ったからだ。

「きみはきみ、わたしはわたしだよ」

イベントのテーマに掲げられたこの一文は、まるでコジコジの代名詞のようだ。

何者かにならなくてもいい。

役に立たなくてもいい。

ただ、そこにいるだけでいい。

そんなメッセージが、情報の洪水と自己実現のプレッシャーに押し流されそうな現代人の心に、静かに沈んでいく。

NUMABASEが注目するのは、この“ゆるさ”の奥に潜む深い哲学だ。

コジコジは、ただの可愛いキャラクターではない。

その言葉は、私たちが無意識に背負っている「こうあるべき」という鎧を、音もなく外してしまう力を持っている。

単なるイベント告知では終わらない。

これは、現代社会の価値観を揺さぶる小さな波紋の始まりだ。

コジコジという存在

コジコジは、さくらももこが生み出した不思議な生命体だ。

性別も年齢も、種族すらも曖昧。

学校に通い、友達と遊び、時には突拍子もない発言で周囲を驚かせる

──しかし、その言葉はいつも核心を突いている。

彼は「何者かになろう」としない。

夢や目標を掲げず、ただ“コジコジ”として存在し続ける。

それは怠惰でも諦めでもなく、「自分は自分である」という揺るぎない肯定だ。

このスタンスは、現代社会の価値観と真っ向から対立する。

私たちは幼い頃から「将来の夢は?」「何になりたい?」と問われ続け、

大人になれば「もっと成長を」「もっと成果を」と背中を押される。

そんな中で、コジコジは静かにこう言う。

「コジコジはコジコジだよ」

この一言は、肩書きや役割に縛られた私たちの心を、ふっと軽くする。

彼は、何かを成し遂げるために生きているのではない。

生きていることそのものが、すでに目的であり価値なのだ。

コジコジ哲学の3つの柱

1) 存在そのものの肯定

「コジコジはコジコジだよ」

この一言は、自己紹介であり、宣言であり、哲学そのものだ。

コジコジは「何者かになる」ために生きていない。

社会的役割や肩書きから自由で、ただ“自分である”ことを揺るぎなく肯定している。

これは道教の「無為自然」や、実存主義の「存在が本質に先立つ」という考え方に通じる。

私たちが無意識に背負っている「こうあるべき」という鎧を、音もなく外してしまう力がある。

(2) 役に立たないことの価値

「遊んで食べて寝てるだけだよ。何が悪いの?」

現代は、生産性や効率が絶対的な価値として語られる時代だ。

しかしコジコジは、その価値観を軽やかに飛び越える。

遊び、食べ、眠る──それは生命を維持し、喜びを感じるための自然な営み。

役に立つかどうかではなく、「生きていること」そのものが価値であるという逆転の発想だ。

これは、功利主義批判やスピノザのコナトゥス(自己保存の力)にも通じる。

(3) 二項対立を超える視点

コジコジは、善悪や成功失敗といった二分法に興味がない。

「正しい/間違っている」という枠組みを超えて、ただ物事をそのまま受け止める。

これは禅の「不二」の境地に近く、価値判断から解放された自由な視点だ。

SNSの炎上や分断が日常化する現代において、このフラットな立ち位置は、

人間関係や情報との距離感を保つためのヒントになる。

この3つの柱は、どれも一見ゆるく見えるが、実は現代社会の価値観を根底から揺さぶる力を持っている。

そして、この思想はSHAFUFU(私の作り出したキャラ)の世界観──孤立しながらも自分であることを肯定する姿勢──とも深く響き合う。

現代社会との接点

私たちは、かつてないほど「何者かになる」ことを求められている。

SNSのプロフィール欄には肩書きや実績を並べ、日々の投稿は「役に立つ情報」や「映える瞬間」で埋め尽くされる。

そこには、無意識のうちに「存在は成果によって証明される」という前提が潜んでいる。

しかし、その前提は多くの人を疲弊させる。

常に比較され、評価され、更新され続ける自己像。

「もっと頑張らなければ」「もっと特別でなければ」という焦燥感は、心をすり減らしていく。

そんな時、コジコジの言葉はまるで水面に落ちる一滴のように、静かに波紋を広げる。

「コジコジはコジコジだよ」

「遊んで食べて寝てるだけだよ。何が悪いの?」

この“ゆるさ”は、逃避ではない。

むしろ、社会が押し付ける価値観から距離を取り、自分のペースで生きるための戦略だ。

それは、過剰な競争や承認欲求に支配された現代において、心の余白を取り戻すための哲学でもある。

そして、この視点はNUMABASEが大切にしてきた「孤独と希望のバランス」にも通じる。

孤立してもいい、役に立たなくてもいい──それでも、そこに確かに存在していることが美しい。

コジコジは、そのことを何の力みもなく体現している。

結び

コジコジは、何かを成し遂げるために生きているわけではない。

ただ、そこにいて、遊び、食べ、眠り、時々ぽつりと真理をつぶやく。

その姿は、私たちが忘れかけている「存在そのものの価値」を思い出させてくれる。

現代は、速く、効率的で、成果を求める声に満ちている。

けれど、そんな時代だからこそ、コジコジのように立ち止まり、

「何者にもならない」ことを選ぶ勇気が必要なのかもしれない。

きみはきみ、わたしはわたしだよ。

この言葉を、今日一日のどこかで思い出してみてほしい。

それは、あなたの心に小さな余白をつくり、

世界との距離をほんの少しだけ優しくしてくれるはずだ。

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