【ライフハック】君は自由だ。日本に生まれてきたことが勝ちの因を積んでる

最近つくづく思うことなんだが、日本に住んでて色々とやることに対しての自由度が高すぎるなって思う。私自身、30歳になるまでは自由奔放に思うがまま生きてきてそこで生きてきた経験から今にいたるわけなんだが、思ったより死なないし思ったよりしんどくなかった。それもこれもしんどいことはしない。したいことをするってことなんだが、好きなことでやっててしんどいとか、好きだったものが嫌いになるとか聞くことがあるが、正直それ共感できない。今日はそれについてまとめようかなって思う。

きなこ
KINAKOです。TwitterInstagramをやっています。自己紹介

よくロジックに当てはめたり、逆に感情で押し切ったりってありますけどそういうのは個人個人違いがあるので感じ方や解釈の違いがあることを理解してもらった上で聞いてもらえるとありがたい。これから書くことは誰かを誹謗中傷することではなく、私自身の意見であったり思うことでしかないので割り切って読んでほしい。

毎度のことながらつらつらと書くので読み飛ばしてもらって構わないし、少しでも何か持って帰ってもらえれば幸いだ。一人でも多くの人が自由を謳歌できますように。

さきほど日本は自由だと言いましたが、本当に自由だなと感じる。やりたいことを目指すにあたってそこまで大きなハードルはないなと。もちろん身体的、精神的なものもあったりするから一概にはってのはあるけど、とりあえず今回はそのことは置いといて話を進めないと終われないので悪しからず。

そもそも学校に行けるんですよ。中には行かない人もいるけどだいたいの人が高校卒業まで全然どうぞって感じで行けちゃうわけで。それって海外に行けば場所によっては学校すらない世界が当然の国だってあるわけで、比べるのとは違うけど、学ぶ場所があるってことは自由を手にする上で必要なことです。学校で学ぶことが全てでもないし、社会にでたら関係ないとかあるかもですけど、そういうことじゃない。学び方を学ぶ場所であり、人との繋がりを学ぶ場所でもある。

専門学校でも無い限り、社会に出た際に同じ仕事に就くってことはない。生まれも育ち方も違う人達が同じ机に座り勉強する。学力とかの差があれど一緒に生活をするってことがとても重要なのだ。何をしていても山の中で仙人にでもならない限り、人とのコミュニケーションは切っても切れない世界だから、分からないなりにそういったところで経験することが何より先に役に立つ。孤立していたとか、馴染めないとかある人も、要はこの場では合わないという事実を感じることができたのだ。家から出ずに家族が世界だったとしたら得られない他人との差を知ること。コミュニケーションの第一歩を経験できる場が学校だと私は思う。

とは書いているが、正直行きたくなければ行かなくていいと思ってもいる。というかそれを経験した上で決めた方向性に間違いはないからだ。何より経験もしないで決めてる人より、経験して無理だと結論を出せたことが偉いことだ。

自由による弊害は、選択肢の多さである。いくら日本が選択の自由を法律化しても、結局選ぶ人の決定力が皆無ならば自分は不自由に変わる。選択しない自分を、誰かに引っ張ってほしい自分を存在させてあげれないのは不自由なことだと思うからだ。選択をする上で大切なのは経験と直感だ。知らないものは興味も持てない。経験をしないと興味は沸かない。知らないと経験できない。負のスパイラル。

だから経験をさせてあげれる場所として学校が存在する。最初の経験は誰かからの推薦があったり、ふと目にしたものに何かしら惹かれるかしないといけない。だからそういった場に連れていくことだったりが必要なのだ。私の場合はサッカーとか卓球とかバスケ、英語、パソコン、諸々…。何か引っかかったのかと言われると何もピンと来なかった。でもその経験があったからこそ健康でいられたり、考え方が変わったり、興味が湧くものに出会いたりした。何一つとして無駄なことはなかったと思う。いまこうしてブログを書くのも、そういった経験があって書けることでもある。自信でサーバ契約やページ作成できるのも今まで様々な経験の集大成だ。

自由を履き違えてほしくないのは、無いものねだりの話ではないということ。自分の中にあるもので選択できるものは誰からの妨害もないという点で自由なのだ。自分がこれから選びたいことについて今まで学んだり、経験したりして掴み取るものが自由だ。サッカーしたいならサッカー教室いったり、本を読んで練習したり、そもそもサッカーボールを買うだろう。そのためにお金がいるから仕事を探したり、親に出してもらったりする。何か目的ができたなら、そのために何をするかどうするかを決めることは自由なのだ。

やらない自由もある。働きたくないと聞くことがある。しないなら選択しなければいいのだが、したくないなら、他になにかしたいことがあると思う。何もしたくないという人もいるが、それはきっと現実に押しつぶされているだけで本当にしたいことは何かしらあるはずなのだ。お腹すいたらご飯食べたい。お風呂に入りたい。一人でいたい。などなど。息をとめたら、耐えれなくて息を吸うだろう。息を吸いたいから吸っている。

生きたいという目的があるから人は生きている。考えたことないと思いきや人は意外と生きたいと思っている。あーこれは色々あるな。でも生きたいと思ったから死にたいと思うことにつながっている。最初から死にたいと思った人はいない。生きるチャンスはまだどこかに存在する。

というかそんな話ではない。自由なんだ。やりたいことについて好きなことが嫌いになってしまうのは、本当の好きについてまだ自己分析できていないのかもしれない。好きなことってのは楽しいものなんだ。周りからみたらしんどいよねそれってことも自分からしたらそんなこと思うこともないことが多い。好きなことが嫌いになる理由は大概が他からの影響が多い。そんなもの環境を変えたらほとんどが解決をする。好きなことを好きなだけやるための努力くらいできるものだが、それをしないのは怠惰でしかない。きっと好きではないのだ。サッカーが好きといっても観るのが好きかやるのが好きかでも違うし、実はサッカーではなくてフットサルが好きなのかもしれない。それくらい好きが曖昧だと嫌いになってしまうことも多い。

自己分析の末にある自由

最初の方に言ったが、自分には何ができるのか、何を経験してきたのかがこの先の自由を勝ち取るために必要な触媒だ。何をしたいかはその先にしか現れない。今までのことを全て書き出して、分類分けしていくことで自分が何が好きで何に向いているのか考えること、逆に何が嫌いで何が苦手なのか知ること。そういうのを体でわかれば大したものだが、ほとんどの人はアウトプットしない見えてこないものだ。だから不安になるし、怒りや悲しみになってしまう。知らないということに恐怖するんだ。知ってしまえば心に余裕が生まれて行動に移しやすくなる。その分自由を手にできる。

感情的になってしまう原因として知らない、分からないことだからが多い。理由はまちまちではあるが、ギャップがあることで人は感情的になる。起きる現象がなんであれ感情の現れは自身の問題である。親しい人が死んだら悲しくて泣く人と泣かない人がいる。同じだけ親しいと思ってた人と仮定して泣く泣かないが分かれるのは、そういった感情を押し殺しているからではなく、出てきた感情の表現が違うせいだ。泣くことで解消するか別で解消してるかの違いがあるだけだ。怒りについても同じでどう対処するかの違いがあるからなのだ。どちらも間違った行動ではない。泣くことで怒ることで自身の気持ちを解決できるならするべきだとも思う。ただ、それでは解決出来ないことのほうが多い。上手くコントロールすることで悲しみや怒りは最小限に、且つ最大限に解消される。

諦めに似た認めが必要

自分はこうだからというのは行き過ぎた考えだが、自分はこうしてしまうという事実は知っておいたほうがいい。そこからどうなりたいかも知っている必要がある。ただそれはすぐに無くなるものでもないし、一生涯付き合っていくものかもしれない。だからこそ認めて上げることがまず大事なのだ。

好きなことでも少しズレたら嫌いになってしまう。そのズレを調整するのが自己分析だ。自分の傾向を知らないで好きなことはコレだと断定なぞできない。なんとなく好きが低確率で天職だったと感じることもあるかもしれないが、その精度を上げるのには自己分析が必要不可欠なのだ。

自己分析とは過去にやってきたことの集大成なわけだが、その時何を感じてどう行動したか書き出してみて欲しい。すると自身の選択の傾向や癖が見えてくる。好きなものが何故好きなのか分かることで本当の好きなものに出会えるのでやってみてほしい。

ちなみに私は人生を楽に生きたかった。分析する中で、楽をするための苦労は自分にとっての苦労ではないと知った。なので、様々仕事をしたり、調べたりするのは自分にとっては一番楽しい時間なのだ。楽になるためと思えばなんでもできるからだ。それが私の自由な生活だ。

人によって様々違うと思うが、自分を知ることが何より自身の自由が見つかるし、自信にもつながってくる。私はこうするんだという決意が生まれる。分析すればするほどその決意は固くなる。

確固たる決意で人生を自由に邁進してほしい。

乱雑な言葉になってしまったことをお詫びする。ただ、言いたいことが1%でも伝わればと思う。

ではまた。

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